◆測量人の風景
◆明治政府最初の測量技術者となる福田父子
 江戸時代後期、和算家は幕府や諸藩の勘定方のほか、天文方や水利工事の技術者として活躍し、併せて子弟を持ち、学問や技術を後世に伝えた者も多い。
 幕末期の大阪に生まれた福田理軒(泉1815-1889)と福田治軒(半 1849-1888?)親子は、その和算家であった。そして、後に江戸に出て、測量技術者を養成した教育家として名を成した。
「測量集成」と「測量新式」

 その時の順天堂塾では、理軒自らが著した最先端の測量書「測量集成」(安政3年 1856)と、日本で最初の西洋数学書「西算速知」(安政4年)が使用されていた。
 時は、ペリーの黒船の来航のころである。

 「測量集成」の自序には、「天を測り地を量すは、経世の用務にして言を待たず。軍務の用又これをもって急となす。然れども天を測るの術、その理難解にして、法又大いに難なり。」などとあり、停泊した艦船とその軍備の大小を知るために測量機器を発明したともあるように、海防を強く意識したものであった。本来の測量に関しては、縮図法、バーニア付き金属経緯儀・航海用の測器セキスタントなどでの角測、八線表(三角関数)を用いた計算法が紹介されている。
 塾は、高度の測量術や(和算的要素を残した)西洋数学を熱心に学ぶ門下生が多く集まり活気に満ちていたという。
 しかし、順風満帆の中、理軒らはすべてを捨てるように江戸に出るのだが、なぜだろうか。

 それは順天堂塾と土御門家との関係が影響している。
 ご存知のように、京都の土御門家は古くから朝廷に仕えて陰陽道と暦のことをしていた。ところが、江戸時代中期、貞享元年(1684)になって、渋川春海が日本人の手による最初の暦、いわゆる貞享暦を作り、新設された幕府天文方に任ぜられるにいたって、実質的な編暦・改暦の仕事は土御門家から幕府天文方に代わっていた。
 ところが、幕府が滅ぶと同時に幕府天文方も消滅するに及んで、土御門家に関連する者が復権することになった。土御門家の塾師範代には金塘が就いていた(1843)こともあり、天文暦学のことで土御門家と深く関係していた理軒らは、新政府に召し抱えられ、東京遷都に従ったのである。
 大学(後の文部省)星学局(天文暦御用掛)に出仕した理軒であったが、明治4年太陽暦への改暦が決定すると早々に職を辞し、塾経営に力を入れた。

 一方の子の治軒はというと、父について和算などを学び、文久3年(1863)には、14歳にして神戸の海軍操練所で数学を教えていた。その縁で、同所にあって、後に工部省鉄道掛、鉄道助となる佐藤政養から蘭学を学んだ。
 明治2年(1869)治河局測量御用掛、翌3年には民部省と、父理軒とともに新政府にあった。まもなく、佐藤との縁であろうか鉄道局出仕を命じられ(1870)、日本最初の新橋・横浜間の鉄道敷設に関する測量に従事し、しかも塾の教授を兼務していた。

 塾教授の兼務といっても、大阪の順天堂塾ではない。
 明治4年(1871)、星学局を辞していた父理軒は、大阪にあった順天堂塾を東京に移転させ、名も順天求合社と改称したのである。
 移転に際しては、在塾生などの理解を得る必要があった。苦慮の末、「文部省の教育政策など、時代の要求に応えるため」とでもいった大義名分で説得したのだろうか、大阪の順天堂塾を弟子に譲り、新しい名称で東京進出を果たし、近代的な教育に進んだ。

 さて、そのころ治軒は、鉄道局で重要な出会いをしている。鉄道局には、いわゆる御雇い外国人の英人ジョン・イングランド(John England)がいて、彼から鉄道敷設測量という実践の中で測量学を獲得したのである。
 そして、イングランドからの技術を集大成し、我が国最初の三角測量教科書「測量新式」(明治5年1872)を著した。その年には、陸軍省に出仕。明治6年には参謀局に入局した。学問としての数学・測量と鉄道局でのイングランドからの技術習得が評価されたのであろう。
 「陸地測量部沿革誌」には、「明治六年秋冬の頃陸軍省に本邦全国に亘り軍事要地の実測に着手の企図あり依て測地事業に経験あるものを徴集の処明治六年十二月初めて之に対し一名出仕官に補せられる。陸軍省第六局附を命ぜらる此の東京市内に洋算の私塾を開き居たる福田治軒なる者初めて陸軍省九等出仕に補せらる」とある。
 「測量新式」という最新の教科書を携えてやってきた福田治軒こそ、陸軍省最初の、いや新政府に採用された最初の測量技術者ということになる。


福田理軒と順天堂塾(1835年ころ)

 父子のことを語るため、理軒の兄福田金塘のことから話を進めよう。
 大阪は「天下の台所」と呼ばれ、商業・経済の中心地として栄えていた。もちろん学問に対する理解もあり、同時に井原西鶴や近松門左衛門に代表されるような独特の町人文化を受け入れる土壌も持っていた。幕末期、福沢諭吉や大村益次郎を輩出した緒方洪庵の「適塾」もこうした素地から生まれたものであろう。

 このような地で生まれ育った金塘は、和算を最上流の武田真元から、天文暦学を京都の土御門家が開く塾から学んだ。
 そして、文政12年(1829)のころには独立し、商人らの子弟を集める塾を開いた。金塘の塾では、今で言うところの数学を教えるのであるが、庶民にとってのそれはどのような意味を持つものであったのだろうか。
 江戸後期、しかも商家の旦那や子息が暇に任せて数学を学ぶということ。いうなれば、学問をよくするというよりは、余暇をもって「学問を楽しむ」ということであろうか。底辺で苦しむものが存在したことを忘れてはならないが、今とは異なる独特の広がりのある素晴らしい庶民社会を想像させる。

 本題に戻ろう。金塘の弟理軒は、和算と天文暦学をこの兄とともに学んだ。そして、兄弟は天保5年(1834)に、数学と測量をする順天堂塾を開いた。理軒19歳のときである。理軒の長男治軒も、当然のように父から和算などを学ぶことになったのだろうが、そこには、少々のきっかけがあった。
 理軒の順天堂塾が軌道に乗りつつあるころ、兄金塘が突然この世を去った(1858)ことから、後継者育成の意味もあって、9歳の息子治軒を早々に学問の道に向かわせたのである。

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